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皇帝としてのオゴデイ

本当に波乱万丈な人生だったのですね。


父・チンギスに従ってモンゴル統一や金遠征、大西征に従った。特に大西征においてはホラズム・シャー朝の討伐で戦功を挙げ、その功績によりナイマン部の所領を与えられた(オゴデイ・ウルス)。オゴデイにはジョチとチャガタイという2人の有能な兄がいたが、ジョチは出生疑惑をめぐるチャガダイとの不和から、チャガタイは気性が激しすぎるところからチンギスから後継者として不適格と見なされていた。オゴデイは温厚で、一族の和をよくまとめる人物であったため、父から後継者として指名されたのである。

1227年の父の死後、モンゴル内部では末子相続の慣習に従ってオゴデイの弟でチンギスの末子に当たるトルイを後継者に求める声があった。これは、慣習だけではなくトルイ自身が智勇兼備の名将であったうえ、周囲からの人望も厚かったこと、父時代に立てた多数の武勲などが要因であるが、トルイはこれを固辞してあくまで父の指名に従うと表明し、1229年のクリルタイでオゴデイはチャガタイやトルイの協力のもと、第2代ハーンに即位することとなったのである。


皇帝として
その後、オゴデイは父の覇業を受け継ぐべく、積極的な領土拡大を行なった。1232年にはトルイの活躍で金の名将・完顔陳和尚率いる金軍を壊滅させ、1234年までに金を完全に滅ぼした。

さらに1235年、首都としてカラコルムの建設を行い、同地でクリルタイを開催。南宋方面とキプチャク草原からルーシ・東欧に至る西方遠征の二大遠征と、あわせて高麗、カシュミールへの遠征計画を決議した。南方遠征については、総司令として中央軍を三男のクチュに任じて山西経由で南下させ、次男コデン率いる西路軍を陝西・四川方面へ派遣しこれを征服させた。1236年からは甥でジョチ家の当主であったバトゥを総司令官とし、功臣スブタイを宿将としつつ長男グユクやトルイ家の当主モンケなど各モンゴル王家の後継者クラス王族たちを派遣し、ヴォルガ・ブルガール、キプチャク諸部族、カフカス北部、ルーシ諸国、ハンガリー王国(アールパード朝)、ポーランド王国(ピャスト朝)など東欧の大半までを制圧するに至った。しかし、南宋に送り出した遠征軍は、皇太子のクチュが陣中で没したために失敗に終わった。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年12月03日 20:03に投稿されたエントリーのページです。

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